2005年3月29日火曜日

新旧交代その1(エスプレッソマシン編)

DSC0025811年ぶりにエスプレッソマシンを買い換えた。これまで使ってきたPhilips製は、ポッドではなく、フィルターにコーヒーを詰めなければならないため、いつしかメンドくさくなって使わない日々が続いていたのだ。

今度買ったのはSaecoのMagicとかいうもの。ようやくポッドが使えるようになるのと、カプチーノなどのミルクをパックから直接チューブで吸い上げられる便利な機能がついている。11年前は、3.5万円ぐらい支払ったが、今回は某ネット通販で26,000円也。安くなったものだ。

特殊なフィルターを介して9気圧で抽出を行うためか、とてもいいクレマが立って、挙句の果てに1日4杯もエスプレッソを飲むことに。しばらくは、湯水の如くエスプレッソを飲む日々が続くのだろう。



#モノを捨てるのはキライなので、Philipsが欲しいという方がいらしたら、よろこんで差し上げます(笑



2005年3月28日月曜日

The Cross in the sky

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よく晴れた日曜の夕方、飛行機雲同士がクロス。ちょっとめずらしくも、神々しい風景だった(目黒通り・等々力付近にて)。



何でこんな絵なの?(N響アワー)

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先日のN響アワー(NHK教育)でみた、不思議な画角の絵。

4:3(ふつうのSDTV放送)で撮った絵を、NHK-BS用に変換?(9:16変換)、さらにまた通常のアナログ放送用に4:3に再変換しているようで、絵の周囲にブランクが1周できている。つまり、元よりもずいぶん小さい絵で放送している。

しかも、やめりゃあいいのに、最初の変換の際に、左右のブランク部分にヘンな柄つきのテクスチャーを加えている(赤いところ)。

・・だったら、元素材の絵のままの方がいいのに。

いくら受信料不払いが増えていても、コンバージョンのコストが足らないとは思えないのですが。



2005年3月25日金曜日

オトナって?

ソフトバンクインベストメント(SBI)が、ニッポン放送が保有するフジテレビ株式(13.9%)を借り受け、あわせてニッポン放送・フジ・SBI3社でBB関連のVCを設立するとのこと。ライブドアからの間接的な経営支配を避けたいフジテレビと、映画などのコンテンツファンドなどにより投資先のパフォーマンスを上げたいSBIの思惑が一致したのだろう。

この件で記者会見に臨んだSBIの北尾CEOは、ライブドアとフジサンケイグループ間の問題に対して、今回のディールが「オトナの解決」であることを繰返し述べていた。

でも、ここでいう「オトナ」って何?

清濁併せ呑み、原理原則を貫くことよりも妥協をもってモノゴトを転がし、パワーゲームを得意とする寝技師の姿が思い浮かんで鼻白むのは、オトナでない証拠なのかも。

焦土作戦を訴追されないためのVC設立とは、いくらオトナといえども無茶なスキームと思いますが。



2005年3月24日木曜日

英国初の合法的ビデオダウンロード販売?

イギリスの民放テレビ局Channel Fiveと製作会社North One Televisionが、ビデオダウンロードストアの開設を発表し、人気自動車番組「Fifth Gear」のサイトで、4本の無償ダウンロード提供を開始。

スーパーカーのレビュービデオ12本を各1.50ポンドでダウンロード販売するほか、番組の人気場面のビデオを提供するとのこと。英国で初の合法的なビデオダウンロード販売をうたっている。・・・とのことだけど、何が目新しかったり、初の合法ダウンロードサイトたる所以なんだろう・・・。

驚くのは、BBCの人気自動車番組”TOP GEAR"をパクった”5th GEAR”というタイトル。最近は6速のクルマも増えたからTOPのひとつ下のギアということなのかも。



2005年3月22日火曜日

楽天インフォシークによる「テレビ」に関するアンケート結果

楽天傘下のインフォシーク(リサーチ)で、テレビの視聴状況やデジタルレコーダー保有による影響の調査が行われた。

アンケート結果はまあ妥当な内容だが、デジタルレコーダー保有によるCM飛ばしについて訊いていないのは、既存放送局に対する深謀遠慮か。球団放映権料ではヒトモメあったようだし。

フジテレビのホワイトナイトと噂される楽天だけに、この時期にこの調査をやっていること、発表していることが注目される。



今日のNHKスペシャル:ラジオの存在意義って?

3月21日のNHKスペシャルは放送80年特集の第1回として、「いのちのメディア ~ラジオにみる放送の原点~」というお題で、ラジオがいかに災害報道に役立つか、正しい情報を一元的に流すには放送がいかに役立つか、でも為政者が悪用すればルワンダのように民族浄化に国民が手を貸すこともある、のような実例の紹介+黒柳徹子(古)のコメントを1時間余りに引き伸ばしていた。

こんな時期に、災害報道という機能だけでラジオの存在意義を問い直すなんて、不祥事続きのNHKという存在の自己正当化のため?あるいは総務省の号令下でのニッポン放送への援護射撃?なんとも不可解な内容でございました。

幹部や役人・政治家からの指示が多そうで、編成サイドの苦労が偲ばれる。おつかれさまでした。



2005年3月21日月曜日

The Nikkei Magazine創刊

DSC002453月20日の日経本紙日曜版の第2部として、「日経マガジン」の創刊号が付いてきた。

B4オールカラー30ページという体裁の月刊誌で、新聞定期購読者には無料で送られてくるようだ。

旬のヒトへのインタビュー、スローライフ系のモノがたり、トレンドウォッチなど、ライフスタイルマガジンの定番的内容だが、創刊号としての力の入り具合も相まって、無料でもらえるものとしては、まずまずのクオリティだと思う(実際は新聞購読料が割当てられているが)。特に松井秀喜のインタビューは雑誌VSに類するような切り口で、日曜朝の読み物としては悪くない。少なくとも以前断罪した40代男性誌よりは「読める」内容だ。

広告主はLexus、三菱信託銀、資生堂(メンズ)、TOD'S、ANA、メルセデスベンツ日本、東芝、日興コーディアル、マツダ、BVLGARIという豪華揃い。ま、ご祝儀&無料協賛枠ということもあろうが、クオリティマガジンの体をなすには役立っていると思う。

とはいうものの、R25をはじめとするここしばらくの無料誌ブーム、結局マスコミ各社の足元を危うくはしないか。ただでさえ、水と安全とTVは無料だった国。結局なんでもタダになって、タダになった順に成り立たなくなって破綻なんてことを考える僕は悲観論者だろうか。



クリストの"The Gates"にみるアカウンタビリティの限界

今年の2月12日から28日までの16日間、NYのセントラルパークでChristoとJeanne-Claude夫妻によるパブリックアート"The Gates"の展示が行われた。先週のNHK教育「新日曜美術館」で放映されたインサイドストーリーを通じて、作品だけでなくプロジェクト自体に非常に感銘を受けたので、ここで記しておきたい。

それでは、従来の彼らの作品に同じく、ランドマークをオレンジ色の布で覆う以上でも以下でもない"The Gates"に、なぜ感銘を受けたのか。それは、このプロジェクトのコンセプトと実行方法、そして人々に与えた影響が、すべてアカウンタビリティを超えたところにある、もっとたいせつな何かに支えられていたからなのだ。



"The Gates"は7,503個の門をセントラルパークの総延長37kmの歩道に沿って設置する大プロジェクトであり、そのための製作・運搬費や有償ボランティア600名などによる費用は20億円とも言われている。驚くべきは、クリストとジャンヌ・クロードは、このプロジェクトを描いた絵など彼らの作品を売るということのみでこれらの費用を捻出したことにある。スポンサーを募ることで、芸術表現に制約が生じたり、そもそもの作品の意味が失われるという考え方なのだ。(余談ながら、このfundingの方法だけは、フェラーリが50年代初頭に一般向けスポーツカーの販売を拡大し、GP参戦費用を捻出したことに似ている)


このようにして表現の自由を獲得しつつも、彼らは作品についての意味付けを行うことはしない。なぜなら、意味や印象はそれを見た人それぞれが感じる通りのことであって、それを作者が規定するものではないという信念があるからだ。

では、この"The Gates"を実際に見た人々の反応はどうだったかといえば、普段は芸術にそれほど興味を持たなかった人たちも、ただ単純に「美しい」と感じられたようだ。少なくとも、彼らの興味を惹き、それぞれが感想を持つことができたという意味で、本プロジェクトは成功である。


つまり"The Gates"というプロジェクトの真髄は、実体をもつ対象物のオーラに対するアカウンタビリティの放棄あるいは拒否にあると思う。特に昨今は、芸術作品に限らず、モノゴトは周辺情報のみで語られることが多い。そして我々も実体を見ずに、周辺情報だけでわかった気になっていないか。

芸術以外の例を挙げるなら、アカウンタビリティの観点で断罪されることの多いエンロンについて、周辺情報に振り回されることなくその実体を正しく理解していたら(「感じ取る」が正しいかもしれない)、あのような巨額の資本を集めることもなかったのではないか。


"The Gates"は、つまり人々の「感じ取る力」によって支えられて実現し、成功を収めることができた。そして、その力を人々に再認識させるとともに、アカウンタビリティというものの限界というものを明らかにしたと思う。そもそも美しいモノはそれ自身が美しさを語るがゆえに、その美しさを説明するための言葉は不要だ。感性の衰えを補うために、他者にアカウンタビリティを要求すること自体筋違いなのだ。

いずれにせよNYで実際に見るチャンスを逸したことは、一生後悔しなければならないだろう。


2005年3月14日月曜日

改造車の騒音規制強化へ  環境省、中環審に近く諮問

ついに、というかやっぱりというか、またもやというか。

環境省が、マフラーを交換した自動車やバイクの騒音規制の強化に向けて動き始めた

「騒音規制法に基づく規制値の強化や、新たな騒音測定方法の導入を図る」とのことだが、ここはぜひ新たな測定方法において、AT車(特にミニバン系)や大型スクーターのような、特にここしばらく増加している「遅いくせに、ずっと音が出っ放し」系を強く取り締まってもらいたいと思う。同じピーク音量の車両でAT車とMT車を比べるなら、確実にAT系がウルサイのは明らかだからだ。



2005年3月6日日曜日

マーサスチュワート出所と9.11前の世界への切望

昨日の全米のテレビは、マーサスチュワートの出所の模様をずっと実況していたようだ。

ニットのマントにハイヒール姿のマーサは以前と変わらず、その変わらなさゆえに概ね好感を持って受け止められ、すでに複数のトークショーへの出演も決まったと報じられている。

彼女は自身のサイトでコメントを発表している。刑務所での経験を通じて、自身の生い立ちやアメリカンドリームをつかむ機会に恵まれたことへの感謝を述べ、"there is no place like home"で締めくくっている。

しかし、なぜ、量刑を受けた彼女がそれでも支持を失っていないのだろう。もちろん生まれ持った親しみやすさや高潔なイメージ(インサイダー取引で幾分失ったにしても)によるところは大きいだろうが、むしろそれ以上に現在のアメリカ人が、いかに9.11以前の平穏な世界を切望しているかということではないだろうか。

つまり、9.11以降の不穏な世界情勢をマーサの刑期になぞらえると、9.11直前のアメリカンドリームのシンボルたる彼女の出所に同じく、アメリカ人にとっての平穏な世界=homeを取り戻したいということではなかろうか。



2005年3月1日火曜日

トヨタがF1でみる夢は何なのか

トヨタは改装なった富士スピードウェイのメディアへのお披露目を行い、2006年以降のF1招致への名乗りを事実上挙げた。今後は、2006年までの開催権をもつ鈴鹿サーキット(ホンダ傘下)との招致合戦が激化するだろう。

ところで、このニュースを見て率直に感じたのは、トヨタと本田の間に際立って異なるスタンスの違いがあるということ。

それは、平たいコトバでいうなら、F1に対する夢の見方であり、あるいは目的の持ち方の違いだ。

このような観点から、この2社を比べてみたい。



まず先にトヨタから。

いきなり結論めいた書き方になるが、数々の発言や行われてきたことを判断するに、トヨタにとってのF1は、所詮広告宣伝費の一部以上の意味はないようだ。

例えばTMG(トヨタのF1の実行主体)の社長にインタビューしても「ヨーロッパで5%シェアが延びた、ワカモノを中心にモータースポーツ活動の認知率が倍になった。」という、ビジネス上のkey performance indexの強調ばかり。F1に架ける純粋な夢を、少なくとも表向き感じさせてくれない。

もうひとつ気になるのは、F1という西欧(貴族)社会の縮図のようなものに対する敬意というものをトヨタがどれだけ払おうとしているのかということ。トヨタのF1参入のビジョンを読むと、トヨタイズムをもってすればF1だって目じゃないと言っているように読めてしまう。現にLexusが高品質をもっていくつかの高級車メーカーのマーケットを侵食して、世の中のクルマを均質でつまらない方向に押しやっているが、それによって得た自信がF1への挑戦を決意させているのではなかろうか。

以前フジテレビの特番で見たのだが、トヨタの生産現場のエキスパートが、よりにもよって工員服姿でF1のピットストップを「トヨタ式カイゼン」よろしくストップウォッチで作業効率化を図っているいる姿には違和感を覚えた。これって、考えようによってはF1文化への最大の侮辱ではないだろうか。その一方でFerrariが世界最速のピット作業を実現しているのだから、胸もすくというものだ。

トヨタはF1参入にあたって、ドイツのケルンに巨額を投じて運営会社とファクトリーを立ち上げ、第一線級のスタッフを雇いあげ、「勝てるパッケージ」を手に入れた。ところが結果は、まだ全然である。モータースポーツというものにまだなけなしのロマンを感じるひとりのエンスージアストとしては、大会社のビジネスのためのF1というものの味気なさに対するスタンスは明確にしておきたいと思う。

ワカモノを取り込むための販促企画としてのF1、世界最高の量産経営システムの適用による、世界最速のF1。考えるだにつまらないではないか。


別に僕はホンダ・シンパではないけれども、こと2004年秋の雑誌Numberで読んだ、Honda F1のチーム統括者(名前や役職は失念)のヒトコトに共感を覚えた。曰く、F1は所詮西洋の貴族社会に起源があり、そこに東洋人であるホンダが土足で上がりこんで荒らして帰るつもりは毛頭ない。長い時間を掛けて共存してゆく、というようなことだったと記憶している。このようにF1の歴史やあり方にリスペクトを払った発言は、とても好ましく思う。そして、そのような発言の端々から、ホンダのF1に対する夢や目的の持ち方を感じ取ることができる。


そういえば、台場のトヨタMEGA WEBを作るときに「150億円用意するから、苦手なワカモノを取り込める企画を用意してくれ」って話が落っこってきたことがあるが、あれと同じだ。結局、ハコモノ業者が適当な企画をこしらえて、あのような施設ができたが、ワカモノの取り込みに成功したとはとても思えない。そもそもちょっとやそっとの小細工でワカモノを取り込もうというのは、いささかあざとくはありませんでしょうか。