2005年3月21日月曜日

クリストの"The Gates"にみるアカウンタビリティの限界

今年の2月12日から28日までの16日間、NYのセントラルパークでChristoとJeanne-Claude夫妻によるパブリックアート"The Gates"の展示が行われた。先週のNHK教育「新日曜美術館」で放映されたインサイドストーリーを通じて、作品だけでなくプロジェクト自体に非常に感銘を受けたので、ここで記しておきたい。

それでは、従来の彼らの作品に同じく、ランドマークをオレンジ色の布で覆う以上でも以下でもない"The Gates"に、なぜ感銘を受けたのか。それは、このプロジェクトのコンセプトと実行方法、そして人々に与えた影響が、すべてアカウンタビリティを超えたところにある、もっとたいせつな何かに支えられていたからなのだ。



"The Gates"は7,503個の門をセントラルパークの総延長37kmの歩道に沿って設置する大プロジェクトであり、そのための製作・運搬費や有償ボランティア600名などによる費用は20億円とも言われている。驚くべきは、クリストとジャンヌ・クロードは、このプロジェクトを描いた絵など彼らの作品を売るということのみでこれらの費用を捻出したことにある。スポンサーを募ることで、芸術表現に制約が生じたり、そもそもの作品の意味が失われるという考え方なのだ。(余談ながら、このfundingの方法だけは、フェラーリが50年代初頭に一般向けスポーツカーの販売を拡大し、GP参戦費用を捻出したことに似ている)


このようにして表現の自由を獲得しつつも、彼らは作品についての意味付けを行うことはしない。なぜなら、意味や印象はそれを見た人それぞれが感じる通りのことであって、それを作者が規定するものではないという信念があるからだ。

では、この"The Gates"を実際に見た人々の反応はどうだったかといえば、普段は芸術にそれほど興味を持たなかった人たちも、ただ単純に「美しい」と感じられたようだ。少なくとも、彼らの興味を惹き、それぞれが感想を持つことができたという意味で、本プロジェクトは成功である。


つまり"The Gates"というプロジェクトの真髄は、実体をもつ対象物のオーラに対するアカウンタビリティの放棄あるいは拒否にあると思う。特に昨今は、芸術作品に限らず、モノゴトは周辺情報のみで語られることが多い。そして我々も実体を見ずに、周辺情報だけでわかった気になっていないか。

芸術以外の例を挙げるなら、アカウンタビリティの観点で断罪されることの多いエンロンについて、周辺情報に振り回されることなくその実体を正しく理解していたら(「感じ取る」が正しいかもしれない)、あのような巨額の資本を集めることもなかったのではないか。


"The Gates"は、つまり人々の「感じ取る力」によって支えられて実現し、成功を収めることができた。そして、その力を人々に再認識させるとともに、アカウンタビリティというものの限界というものを明らかにしたと思う。そもそも美しいモノはそれ自身が美しさを語るがゆえに、その美しさを説明するための言葉は不要だ。感性の衰えを補うために、他者にアカウンタビリティを要求すること自体筋違いなのだ。

いずれにせよNYで実際に見るチャンスを逸したことは、一生後悔しなければならないだろう。


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